エイゴ坂
天正6年、兵糧運搬のため高天神城へ入った武田勝頼軍を阻止するため、徳川家の旗本、榊原康政が地頭方、新谷台地で一戦を交えた。負傷した康政は家臣とともに、老婆ひとりが留守居をしている久々生の1軒の農家に逃げ込んだ。老婆は手傷を負った武将たちを快く迎え、お茶を沸かしてもてなした。康政は老婆の親切にたいそう喜び、帰り際に「ここより見える場所全てを、こののち、未来永劫に、そちの土地とするがよい」と言って海岸から山の中腹までの現在のエイゴ坂一帯の土地をくれた。老婆は、このことを未来永劫忘れまいと、裏山の坂道を「未来永劫坂」と呼び、いつしか、未来が消えて「エイゴウ坂」となり、その後「エイゴ坂」と言うようになったと伝えられている。
地域 | 遠州 |
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所在地 | 御前崎市御前崎字新谷 |